LOGIN第二幕 レッスンの日々
それからの日々は、立ち止まる暇もなく流れていった。
沙友里は本格的なレッスンが始まり、徐々に忙しくなっていく。レッスンがある日は、スタジオまでの送迎だけになった。それ以上は、何もできなかったし、しなかった。
建物の前で立ち止まる。ガラス張りの入口の向こうから、僅かに音楽が漏れてくる。低いカウントと、床を踏む音。知らない大人の、鋭い声。
「行ってくるね」
沙友里はそう言って、振り返る。笑顔を作ろうとしているが、なっていない。
「うん」
それだけ返して、一歩下がる。ここから先は、僕の場所じゃない。
最初の頃は、帰りが遅かった。みんなが出てきても沙友里だけ出てこない。やっと出てきたと思ったら、 顔色が悪くて声も小さい。
「どうだった?」
そう聞くと、沙友里は決まって曖昧に笑う。
「……私だけ怒られた」
詳しくは言わない。言いたくないんじゃなくて、言葉にできないようだった。
靴擦れの跡。震える指。鏡の前で何度も同じ振りを繰り返したんだろうと分かる。
「向いてないのかな」
ぽつりと零れたその言葉は、僕に向けたものじゃなかった。自分自身に向けた疑問だった。
僕は——励ますようなことを言わなかった。
「今日で終わり?」
「……明日もある」
「じゃあ、ちゃんと行こう」それだけを彼女に伝えた。
沙友里が目を丸くする。それから、困ったように笑った。
「冷たいね」
「慰めてほしいわけじゃないでしょ?」
そう言いながら、僕は歩き出す。彼女も、少し遅れてついてくる。
「沙友里の歌もダンスも、ちゃんと届くよ」
前を見たまま、そう言った。
「今は、怒られるだけだろうけど」
「……うん」
「それでも、次のレッスンに行けるなら、大丈夫だ」
沙友里は何も言わなかった。ただ、僕の袖をほんの少しだけ掴んだ。その仕草を服越しに感じた時、胸がいっぱいになった。
抑えていた気持ちが溢れて、僕は彼女の手に自分の手を重ねた。その日は手を離さなかった。
夜、家に帰るとメッセージが届く。『今日、泣かなかったよ』
短い一文。スタンプも、絵文字もない。
僕は少し考えてから返す。
『偉い』
『……我慢しただけだし……』
『それが偉いんだよ』
既読がつくまで、少し時間がかかった。
しばらくすると、ひとつだけスタンプが返ってくる。沙友里が好きなVtuberが「ありがとう」と言っているスタンプ。
翌日も、その次の日も、僕は同じことを繰り返す。送って、待って、迎えに行く。
ある日、スタジオから出てきた沙友里の背筋が伸びていた。
「今日、ダンス褒められたよ」
笑顔で沙友里は報告してくれた。少しだけ足取りが軽い日が増えてきた。
でも、帰り道ではたまに愚痴をこぼす。変わらない部分をみて、少し安心する。それが良いことなのかは分からない。
「ねえ」
ある日、沙友里が言った。
「直哉がいなかったら……たぶん、もうやめてたと思う」
僕は立ち止まらずに答える。
「少しでも……役に立ってるなら……」
「立ってるよ!」
僕が言い終わらないうちに、沙友里に遮られた。そして、小さく笑った。
「逃げてもいいって、言わないでくれるところも……」
その言葉が、胸の奥に落ちていく。僕は何も言わず、少しだけ歩幅を緩めた。
家の前に着いて、沙友里は振り返る。
「明日も、来てくれる?」
「もちろん。僕は、姫様を護衛する主人公——じゃなくて、サポートキャラだから」
「主人公じゃないんだ」
「主人公は、お姫様の沙友里だよ」
「ふふ……なにそれ」
「今書いてる漫画」
沙友里は、いつも僕の作品に興味を持ってくれる。ほんの一時、僕たちは漫画の話で盛り上がる。それは、久しぶりの穏やかな時間だった。
「じゃあ、また明日ね」
「うん、また明日」
そう答えると、彼女は安心したように頷いた。ドアが閉まる。
一人になった帰り道。僕は空を見上げる。そこには、雲の切れ間から見える星空がある。沙友里は、少し笑顔を取り戻した。
——まだ手は繋がっている。それで充分だ。
僕は今日も沙友里を待つ。こうして僕たちの中学生活は過ぎていった。
第六幕 また手を取り合って ライブ会場は、あの夜と同じ匂いがした。照明の熱、人の波、胸の奥まで響く低音。——結局、来てしまった。 最前列じゃない、目立たない席。それでも、ここからならちゃんと見える。 ステージに光が落ちる。歓声が上がり、一番前の列に沙友里が立っていた。 以前見た、あの夜と同じ構図。僕は客席で、沙友里はステージの上。 歌い出した瞬間、会場の空気が一気に持ち上がる。あの頃より、ずっと堂々としている。声も、表情も、動きも。——アイドルなんだ。 そう思ったら、目を離せなくなった。これが沙友里の目指した世界だった。 曲の途中、沙友里がふっと客席を見る。ライトが揺れる。視線が流れる。……今。&
第五幕 伸ばせなかった手 最初に見たのは、ニュースでも記事でもなかった。 SNSから流れてくる噂だった。写真はぼやけていて、夜の街で、二人並んで歩いているように見えた。 だが、僕は見間違えない——沙友里だった。 沙友里と、知らない男。「○○と一緒だったらしい」「仲良さそうだった」「距離、近くない?」 確かなことは、何ひとつ書いていない。でも沙友里は、今をときめくアイドルグループのフロントメンバー。拡散するには十分だった。 僕は、スマホの画面を閉じた。
第四幕 距離のかたち 春が終わり、夏が来て、気づけば季節がひとつ進んでいた。高校一年の終わりが近づく頃には、沙友里の生活は、完全にアイドルのそれになっていた。 レッスン、収録、イベント。 予定は前日に送られてきて、変更は当日の朝に知らされる。『今日は帰れないかも』『ごめん、明日も朝早い』 それだけで、一週間が過ぎていく。僕は慣れたふりをしていた。待つことにも、短い返事にも。 会える日は月に数えるほど。しかも、人目を避けてほんの短時間。「……久しぶり」 そう言って笑う沙友里は、前より少しだけ遠慮がちだった。話したいことはたくさんあるのに、時間がそれを許してくれない。「大丈夫?」
第三幕 デビュー 高校に入って、まだ春の匂いが残っている頃。新しい制服にも、ようやく慣れ始めたばかりの時期。 グループとしてのデビューが決まったと聞かされたのは、いつもの帰り道だった。「今日ね、話があって」 沙友里は、歩きながらそう言った。声は落ち着いているのに、指先だけが少し落ち着きなく動いている。「……私たちのデビュー、決まった」 一瞬、僕は言葉が出なかった。胸の奥で、何かがほどける音がした気がする。「おめでとう」 それだけ言うのに、少し時間がかかった。沙友里は、ほっとしたように笑う。「ありがとう」 嬉しいはずなのに、その笑顔はどこか慎重だった。「でもね」
第二幕 レッスンの日々 それからの日々は、立ち止まる暇もなく流れていった。 沙友里は本格的なレッスンが始まり、徐々に忙しくなっていく。レッスンがある日は、スタジオまでの送迎だけになった。それ以上は、何もできなかったし、しなかった。 建物の前で立ち止まる。ガラス張りの入口の向こうから、僅かに音楽が漏れてくる。低いカウントと、床を踏む音。知らない大人の、鋭い声。「行ってくるね」 沙友里はそう言って、振り返る。笑顔を作ろうとしているが、なっていない。「うん」 それだけ返して、一歩下がる。ここから先は、僕の場所じゃない。 最初の頃は、帰りが遅かった。みんなが出てきても沙友里だけ出てこない。やっと出てきたと思ったら、 顔色が悪くて声も小さい。「どうだった?」 そう聞くと、沙友里は決まって曖昧に笑う。
第一幕 繋いだ手 僕たちが中学三年だったあの頃、放課後はいつも騒がしかった。 通っていたのは、大和中学校。そこで僕が所属していたのは漫画研究部——通称漫研。沙友里はダンス部だ。部活帰りの声、下駄箱の音、夕方に近づく校舎の匂い。でもその日、僕たちだけが違っていたのかもしれない。「直哉」 呼ばれて振り返ると沙友里がいた。制服の袖を少しだけ引っ張って、言いにくそうに視線を落としている。「……一緒に帰ろ?」 断る理由なんて、最初からなかった。並んで歩く帰り道。何だかいつもより歩幅が合わない。明らかに様子が違っている。 沙友里は何か言いたそうで……でも、言わない時間が続く。沈黙に耐えきれなくなったのは、僕のほうだった。「どうしたの?」 沙友里は一瞬だけ驚いた顔をして、それから小さく息を吸った。







