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第二幕 レッスンの日々

last update publish date: 2026-02-07 06:00:19

第二幕 レッスンの日々

 それからの日々は、立ち止まる暇もなく流れていった。

 沙友里は本格的なレッスンが始まり、徐々に忙しくなっていく。レッスンがある日は、スタジオまでの送迎だけになった。それ以上は、何もできなかったし、しなかった。

 建物の前で立ち止まる。ガラス張りの入口の向こうから、僅かに音楽が漏れてくる。低いカウントと、床を踏む音。知らない大人の、鋭い声。

「行ってくるね」

 沙友里はそう言って、振り返る。笑顔を作ろうとしているが、なっていない。

「うん」

 それだけ返して、一歩下がる。ここから先は、僕の場所じゃない。

 最初の頃は、帰りが遅かった。みんなが出てきても沙友里だけ出てこない。やっと出てきたと思ったら、 顔色が悪くて声も小さい。

「どうだった?」

 そう聞くと、沙友里は決まって曖昧に笑う。

「……私だけ怒られた」

 詳しくは言わない。言いたくないんじゃなくて、言葉にできないようだった。

 靴擦れの跡。震える指。鏡の前で何度も同じ振りを繰り返したんだろうと分かる。

「向いてないのかな」

 ぽつりと零れたその言葉は、僕に向けたものじゃなかった。自分自身に向けた疑問だった。

 僕は——励ますようなことを言わなかった。

「今日で終わり?」

「……明日もある」

「じゃあ、ちゃんと行こう」それだけを彼女に伝えた。

 沙友里が目を丸くする。それから、困ったように笑った。

「冷たいね」

「慰めてほしいわけじゃないでしょ?」

 そう言いながら、僕は歩き出す。彼女も、少し遅れてついてくる。

「沙友里の歌もダンスも、ちゃんと届くよ」

 前を見たまま、そう言った。

「今は、怒られるだけだろうけど」

「……うん」

「それでも、次のレッスンに行けるなら、大丈夫だ」

 沙友里は何も言わなかった。ただ、僕の袖をほんの少しだけ掴んだ。その仕草を服越しに感じた時、胸がいっぱいになった。

 抑えていた気持ちが溢れて、僕は彼女の手に自分の手を重ねた。その日は手を離さなかった。

 夜、家に帰るとメッセージが届く。

『今日、泣かなかったよ』

 短い一文。スタンプも、絵文字もない。

 僕は少し考えてから返す。

『偉い』

『……我慢しただけだし……』

『それが偉いんだよ』

 既読がつくまで、少し時間がかかった。

 しばらくすると、ひとつだけスタンプが返ってくる。沙友里が好きなVtuberが「ありがとう」と言っているスタンプ。

 翌日も、その次の日も、僕は同じことを繰り返す。送って、待って、迎えに行く。

 ある日、スタジオから出てきた沙友里の背筋が伸びていた。

「今日、ダンス褒められたよ」

 笑顔で沙友里は報告してくれた。少しだけ足取りが軽い日が増えてきた。

 でも、帰り道ではたまに愚痴をこぼす。変わらない部分をみて、少し安心する。それが良いことなのかは分からない。

「ねえ」

 ある日、沙友里が言った。

「直哉がいなかったら……たぶん、もうやめてたと思う」

 僕は立ち止まらずに答える。

「少しでも……役に立ってるなら……」

「立ってるよ!」

 僕が言い終わらないうちに、沙友里に遮られた。そして、小さく笑った。

「逃げてもいいって、言わないでくれるところも……」

 その言葉が、胸の奥に落ちていく。僕は何も言わず、少しだけ歩幅を緩めた。

 家の前に着いて、沙友里は振り返る。

「明日も、来てくれる?」

「もちろん。僕は、姫様を護衛する主人公——じゃなくて、サポートキャラだから」

「主人公じゃないんだ」

「主人公は、お姫様の沙友里だよ」

「ふふ……なにそれ」

「今書いてる漫画」

 沙友里は、いつも僕の作品に興味を持ってくれる。ほんの一時、僕たちは漫画の話で盛り上がる。それは、久しぶりの穏やかな時間だった。

「じゃあ、また明日ね」

「うん、また明日」

 そう答えると、彼女は安心したように頷いた。ドアが閉まる。

 一人になった帰り道。僕は空を見上げる。そこには、雲の切れ間から見える星空がある。

 沙友里は、少し笑顔を取り戻した。

——まだ手は繋がっている。それで充分だ。

 僕は今日も沙友里を待つ。こうして僕たちの中学生活は過ぎていった。

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